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西荻窪の整体師たけちゃんの福朗日記

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信州紀行09秋~川中島

中断していた信州紀行の最終稿です。

松代から車ですぐ。千曲川にかかる松代大橋を渡ると、川中島・八幡原。
僕がここを訪れるのは約12年ぶり、3回目です。

お昼は、橋を渡りきった所にある釜飯のおぎのやで、と思ったんですが
次回の販売は1時間後。ということで隣の蕎麦屋さんに入りました。
PB180268.jpg
ズルズルッ。辛み大根のオツユがツーンと!食べるほどに食欲増☆

蕎麦屋の窓ガラスから見えたのは「あれっ、こんな所に!?」胴合橋(どあいばし)。
今では石とコンクリートで固められた小川で何の風情もありゃしませんが、ここは
川中島の戦いで討死した武田の武将・山本勘助の家臣が取られた主人の首を取り返し、
胴体とつないだと言われている場所です。
PB180279.jpg

名高い「第4次川中島の戦い」は、ここ川中島・八幡原において1561年9月(10月説も)、
武田信玄公と上杉政虎(後の謙信)との間で行われた、個の大名同士の合戦としては
日本最大の戦いです。

未明、千曲川を渡河した上杉軍(13000)と八幡原に陣を張る武田本軍(8000)は
一寸先も見えない濃霧の中、出会い頭に衝突。

武田軍は別働隊(12000)を欠き手薄な本隊が上杉軍の猛攻にさらされ、
前備え・武田信繁は兄・信玄へ「援軍無用。私が支えている間に勝つ算段を」と
使者を送り、本陣を支え続けるうち壮絶な討死を遂げました。

武田一族の重鎮・諸角虎定、侍大将山本勘助ら有力家臣が相次いで討死する中、
本陣の信玄公にも危機が迫ります。
そこへ高坂虎綱、真田幸綱らの率いる武田別働隊(12000)が駆けつけて
形勢は逆転。上杉軍も多数の戦死者を出し、善光寺平から越後へと引上げました。

諸説ありますが両軍合わせて死者は7000人ほど。5人に1人が討死し、
死傷率にすると3人に1人という大激戦であったそうです。

この合戦を「引き分け」とする見方が多いですが、当時の戦いは土地のやりとりが
第一であり、武田領内より上杉を駆逐したということで結果は武田軍の勝ちとなります。
が!払った代償はあまりにも大きすぎました・・・。

信玄公本陣跡地は「八幡原史跡公園」として整備されています。
有名な信玄公と謙信「一騎打ち」の像。実際の話ではありませんが激戦を物語ります。
IMGP3480.jpg


典厩寺(てんきゅうじ)。
僕が信玄公よりも唯一好きな武将である信玄公実弟・武田信繁公の菩提寺です。
PB180324.jpg
後に松代藩主となった真田信之は、武田信繁の陣跡にあった鶴巣寺を「典厩寺」と
改め、信繁公のみならず両軍の戦死者全てを手厚く供養しました。

閻魔像としては日本最大の典厩寺のエンマ様。
P1120323.jpg
「ボケ封じの石」とな!?
とりあえず触っておくしかないでしょう(笑)!ナデナデ。
P1120325.jpg
武田信繁公の墓前に立つと、背筋がピーンと延びる感じがします。
(写真だと猫背っぽいケド)
僕にとっては憧れとも尊敬とも言い表せない存在。
P1120326.jpg

寺内の「川中島記念館」は規模は小さいながらも信繁公の遺品や
図録で見たことのある武将画など展示されています。

武田左馬助(典厩)信繁公。武勇・知略に優れた名将です。
その戦死は家臣領民だけでなく、敵方の上杉謙信はじめ多くの人々に
惜しまれたと伝えられています。信玄公の悲しみはいかばかりだったでしょう。
PB180319.jpg
信繁公を端的に表すのにズバリなのは江戸期の儒学者・室鳩巣の書物にあります。
「典厩(信繁)公こそは天分・永禄(戦国期)の間に賢と称すべき武将であった。
兄信玄公に仕えて人臣の節を失うことなく、その忠信、誠実は人の心に通じ、
加えて武威武略に長じ、知剛知柔、まことの武将とは信繁公のごとき人物をいう」

信繁公は兄・信玄よりも父親から可愛がられ、跡継ぎとも目されていた人物。
しかし、信玄公によるクーデターで父・信虎は国外追放となり甲斐国主は信玄公に。
信繁は父親を追いやった兄・信玄によく尽くし(自分が国主になれていたはずなのに)、
その見識・人望の高さから「武田の副大将」と呼ばれ万民から慕われていました☆

信玄公の側近・真田昌幸は武田信繁公を敬愛しており、その遺徳に深く感じ入り
自分の次男に同じ「信繁」という名前を付けています。
この人物こそ戦国最後の勇将といわれる真田幸村。実名は「真田信繁」です。

秀吉をよく支えた弟・豊臣秀長は、武田信繁を手本としていたと伝えられています。


信繁公は嫡男・武田信豊に九十九ヶ条からなる教訓を残しています。
「論語」「史記」「孫子」など、中国古書を引用して戦場での心がけは言うに及ばず、
政治面、社会面、倫理面などに通ずる教訓の主な項目を一部抜粋してみます。

二・戦場においてはいささかも未練なすべからざる事(全力で戦うこと)。
三・油断なく行儀たしなむべき事(自分の行いが正しくなければ誰も従わない)。
六・父母に対してはいささか不幸すべからざる事。
七・兄弟に対してはいささか疎略すべからざる事(ぞんざいな態度はとらない)。
九・諸人に対して少しも緩怠(不作法)すべからざる事。僧・童女・貧者にも、
  ますますその人に応じて慇懃(丁重)に接する事。
十九・詫言(愚痴、不平不満を言う)や雑談すべからざる事。
二十三・人を障する者(陥れるために悪く告げ口する者)許容すべからず。
六十六・人の過ちを批判すべからざる事。
九十九・毎事(いつでも)退屈すべからざる事(怠けず一心に努力すべし)。
この他にも「遊びや酒はほどほどに」とか「人のえこひいきをするな」とか、
喧嘩両成敗の思想など、これ以後世に広まって現代まで通ずる内容になっています。

この「武田信繁遺訓」は後に信玄公が制定した「甲州法度之次第」の基になったとされ、
それは江戸幕府の「武家諸法度」の制定にも深く係わっています。
江戸時代に入っても広く武士層に読まれ、いわゆる「武士道」の根底深く流れるものは
この武田信繁公の精神によるものが大きいことは意外と知られていません。

おそらく、合戦が行われなくなった江戸時代に武士の精神教育をするのに
信繁公はまたとない「教材」だったのではないでしょうか。
(余談ですが前述の室鳩巣という儒学者は武士道精神をとても重んずる節があり、
赤穂浪士討ち入りの時は浪士たちの行いを義挙として助命を主張しています)

このような逸話、エピソードが数多く残る武田信繁公は享年37歳。
今の僕と同じような歳、そう考えると何か身にチカラが入ってしまいます。


大河の主人公にもなった武田武将・山本勘助晴幸。信玄公と一緒に出家して
法名「道鬼」と名乗ったので、多くはお坊さんスタイルで描かれます。
一般的には軍師として知られていますが本当は実在すらアヤシイ存在でした。
しかし最近の研究で、かなり重要な役割を担っていたことが分かってきています。
PB180307.jpg

信玄公。白毛の総髪兜に赤い法衣、軍配というお馴染のスタイルです。
苗字・官位・いみ名・法名など全部くっつけると
「武田信濃守大膳大夫源晴信入道法性院大僧正徳栄軒信玄機山」(長っ!)
IMGP3453.jpg

武田信繁公討死の地から見た川中島・八幡原。手前には千曲川。
戦いも、ほぼ同じ季節に行われました。こんな風景だったのでしょうか。
激戦を見ていた山々です。
IMGP3475.jpg


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