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西荻窪の整体師たけちゃんの福朗日記

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信州紀行09秋~松代

山田温泉より下山し、振り返って見ると全く違った景色が!
雪が降っているのは山の上だけだったんですね☆
今、あそこから来たんだと思うと不思議な気分。
IMGP3368.jpg
露で覆われ、みずみずしい食べごろのリンゴたち☆
IMGP3373.jpg

街へ降りてくると、すっかり晴れていました。
向かう先は真田の城下町・松代!

「真田宝物館」には、武具や什器、古文書など展示されていました。
名高い「六文銭」の旗印。三途の川の渡し賃“六文”を掲げ、
不退転の覚悟でいくさに臨んだ真田家の家風がそのまま表されています。
考案したのは真田幸綱(幸隆)。武田信玄公の重臣です。
P1120261.jpg
では真田家について簡単に・・・。

真田の発祥は上田になります。真田庄にあった海野(うんの)幸綱は地名を採り
「真田幸綱(幸隆)」と改称。信濃(長野)の小豪族のひとつとして存在していました。

隣国甲斐(山梨)にて武田氏が勢力を誇り始め、領土拡大を狙って信濃へ進出。
真田家も危機に晒されます。他の小豪族が次々と併呑または滅亡させられる中、
真田幸綱も上州へと追いやられますが、「小豪族が生き延びるには強い大名に
付くしかない」。
これを巧みにやっていくのが真田家が明治以降まで存続する“すごさ”なんですね☆

真田幸綱は甲斐国主・武田晴信(後、信玄)の家臣となり、信濃先方衆として活躍、
重臣に列せられるようになりました。

幸綱隠居後、真田家当主として信玄公を支えたのは嫡男・真田信綱。
そして次男・昌輝という剛勇のふたりが真田の支柱となります。
三男・昌幸は「武藤喜兵衛昌幸」として名族武藤家を継ぎ、信玄公の
側近としてその政治・武略を学び、信玄公をして「我が眼の如し」と言わしめる程の
智将に成長していくのでありました☆

信玄公死去。幸綱も後を追うように他界。甲斐国主は武田勝頼となります。
長年の敵・上杉謙信と同盟するも謙信死去により上杉の相続争いに巻き込まれ、
前に織田・徳川、後ろに北条という敵に挟まれ徐々に武田家を取り巻く環境は悪化。
大敗を喫した「長篠の戦い」で真田信綱・昌輝兄弟は討死を遂げてしまいます。

兄ふたりの戦死により三男・昌幸は「真田昌幸」として真田姓に復し、勝頼を補佐。
しかし外様であるため勝頼側近から疎まれ、武田家中では立場を無くしていきます。

織田・徳川の甲斐侵攻により武田家直系が滅ぼされると、真田昌幸は戦国の
小大名として独立。織田に付き、時には上杉、北条に付き、実に巧みに世を
渡っていきます。豊臣秀吉の政権下では次男・信繁(俗名・幸村)を人質として
差出し真田家は安泰。しかし秀吉の死で世は再び乱世へ。

全国の諸大名が大阪豊臣の西軍、関東徳川の東軍に分かれて争うことになり、
真田家は家名存続のため昌幸・信繁は西軍に、嫡男信之(信幸)は東軍に
付くという方法を選択。
信濃・上田城を根城に真田昌幸・信繁親子は信玄公譲りの知略をもって
数倍の徳川の大軍を二度に渡って撃破。大いに真田の名を世に知らしめます。

関ヶ原の戦いで西軍が負けると、信之の助命嘆願により昌幸・信繁は死罪を免れ
紀州九度山へ蟄居。昌幸はその地で没します。
真田信繁は大阪の陣に豊臣方として参戦。武田軍の赤備えを模して真田隊を
赤一色で統一、少数精鋭をもって家康本陣に肉迫するも力尽き、首を取られます。
しかしこれが「真田日本一の兵」と呼ばれる由縁となるのでした。

徳川から憎まれた真田家ですが、嫡男・信之は家康からは大層な信頼を
寄せられ、家康重臣・本多忠勝の娘を娶ったりしています。
そして真田信之が配置されたのが、ここ松代なのです。

家康死後、安泰を図る徳川幕府は外様大名や豊臣家と関係の深かった大名などの
粛清にかかります。松代藩初代藩主・真田信之にもその魔手(?)が伸びますが
信之の卓越した政治術で国替え・取り潰しの危機をことごとく回避。
以後明治の世に至るまで、ずっと同じ藩で政権を執るという日本唯一の家として
存続していくのです☆

なんだかんだ歴史の話になると長くなっちゃいます。


真田宝物館を出ると、昨日小布施でお昼を食べた「竹風堂」の松代支店が。
また栗が食べたくなって入ってみました。
こ、この「栗あんしるこ」、絶品!最強!です☆
P1120272.jpg
あんこを使わない栗だけの甘さでめちゃくちゃ美味しいです。
家で作れるしるこ売っていたので迷わず買いました。
久しぶりだな、美味しいもの食べてビックリしたのは☆

竹風堂からもすぐ見える、松代城です。
僕は十数年前に松代を訪れたことがありますが、その時は石垣しかありませんでした。
現在は門が復元されています。
P1120281.jpg
松代城は松代藩の城として、初代藩主真田信之が入城。
IMGP3417.jpg
しかしここには元々城がありました。
武田信玄公が宿敵上杉への備えとして築城した前線基地・海津城がその前身。
信玄公の命を受け縄張り(設計)したのは、山本勘助晴幸。
勘助の甲州流築城法は徳川の属城(彦根城など)建築へと受け継がれていきます。
IMGP3435.jpg
海津城の城将は、信玄公の信頼厚い高坂虎綱(昌信)。
最大1万人は収容可能な大きな平城でした。現に川中島合戦の前、武田の大軍は
この城へ入っています。城から上る多量の炊事の煙を見た上杉謙信が、武田軍の
動きを読んだという創作話はここが舞台になっています。
こうして日々、善光寺平、八幡原へ目を光らせていたのでしょうね☆
PB180258.jpg
高坂虎綱は武田家一の出世頭。能力あるものは身分が低くても登用する
信玄公の人材活用術です。
それとは別に、信玄公から虎綱へ宛てたラブレターが現存していることから、
二人はそういう関係だったことが知られています。
昔はごく普通の習慣だったんですが。おっと話があらぬ方へ・・・。

いざ決戦の場へ!


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| 山梨長野 | 02:16 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

COMMENT

昔の人の視力はいったい…

戦場にレーダーなど無い時代。
戦況確認には、高みにある物見櫓から人の目で見るしかないですもんね。
視力はどんだけのものだったやら。
「近眼の武将」なんて生き残れなかったでしょうね。
たけちゃんさん、現代に生まれてきて良かったですね(笑)

| こうちゃん | 2009/11/27 07:33 | URL |

忍び

>こうちゃんさん
方々に乱波(忍者)を放って、偵察させて
はいましたが、それにしたって実際は
自分の目で確認するしかなかったでしょう
からね!
仰るように近眼では飛び道具も見えないし
敵味方の区別だって・・・。
生き延びる確率は低かったでしょう^^;
昔は近眼になる要素もなかったから
近眼は少なかったでしょうけど、坂本竜馬は
近眼だったと伝えられています。
近世になるに従い増えていったんでしょうね~。
現代に生まれてヨカッタ(笑)

| たけちゃん | 2009/11/27 14:57 | URL |















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